成功談のご紹介

Hollister 失禁ケアは患者様のことを第一に考え、生きる力を育むサポートに尽力いたします。ユーザー主導型の研究開発を出発点とし、技術的発展という長年にわたる習わしに加え、自立した生活を取り戻して維持するための品質の高いヘルスケア製品の重要性を理解している献身的で専門的な知識を有する専門家たちが一体となって取り組んでいます。これからご紹介するお客様の声は、生活に関与する製品利用者、介護者、臨床医といった Hollister 失禁ケア コミュニティのメンバーから実際に寄せられたものです。ここで紹介する人の興味をそそるような体験談では、患者様第一という当社の指針を示しています。

ティム・シースタッド、ドイツ

ハイデルベルクに向かってドイツのアウトバーンでバンを走らせていると、ブルース・スプリングスティーンの「ダンシング・インザ・ダーク」がラジオから流れてきました。バンの後部座席では、17 歳のティム・シースタッドが両親の後ろ側に座って、夕方近くの薄暗がりの中で本を読んでいました。アメリカのスポーツ ジャーナリスト、ビル・シモンズ著の The Book of Basketball (バスケットボール大全) は、ティムが籍を置くハノーバーの学校の必読書ではありませんでしたが、ティムの生活は学校の中でも外でもスポーツを中心に回っています。ティムの夢はオリンピックの舞台で優勝し、金メダルを獲得することです。

しかし、彼は、オリンピックでメダルを夢見る世界中の他の多くの若いアスリートたちとは違います。ティムは先天性の二分脊椎を患い、4 歳から車椅子生活を送っているのです。

「息子が生まれる 6 か月前、彼に二分脊椎があることを知りました。」と、彼の母のアンネリー・シースタッドは語ります。「その小児病院はハンブルクでも有数の病院で、息子に異常があることを事前に知ることができたので、心の準備ができました。私たちは、将来のことを考え過ぎないようにするとともに、その時が来たとき、毎日の生活を一生懸命乗り切らなければならないことを覚悟しました。ティムは、生まれたその日に最初の手術を受けました。」

ハンブルクの病院のスタッフは、アンネリーとティムの父、ペーター・シースタッドに二分脊椎症を患う子供たちの親から成るサポート グループを紹介しました。17 年経った今でも、シースタッド夫妻はサポート グループの多くの人々と交流しています。「理解のある人々とは彼らのことです。」と、ペーターは語ります。「最初のころは大変でしたが、病院や多くの人々からの支援もあって、なんとかやってこれました。」

ティムはアンネリーとペーターの間に生まれた次男です。ティムの兄のクラースは 3 歳年上で、健康上の問題や合併症もなく生まれました。「私たちは、このような健康上の問題を抱えた 1 人の子供にどのようにして向き合うことができたのか今でも尋ねられます。」と、アンネリーは言います。「しかし、私たちはそうは考えませんでした。この生活を困難なものとは考えなかったのです。いたって普通の生活です。」

「ティムはどんなことでもスピードを出すことが好きです。」と、彼の父は微笑みながら話します。「ティムは子供のころから車椅子をとても高く走らせることが好きでした。下り坂をノーブレーキで高速で疾走することもありました。彼が 4 歳のときには既に車椅子レースに夢中になっていて、私たちは何とかこれを止めさせる方法はないかと思っていました。」

ティムが 7 歳になったころ、アンネリーは、車椅子の子供たちのためのスポーツクラブに彼を入会させました。このクラブを引率していたのが、ドイツを代表するパラリンピック車椅子レースのメダリスト、ハインリッヒ・クーベール氏でした。この最初のスポーツクラブ以来、ハインリッヒと彼の妻であるグードルンはティムの助言者となっただけでなく、コーチ、アドバイザー、何でも打ち明けられる相手、そして友人となりました。このスポーツクラブに入会してからティムは初めて車椅子レースに参加しました。これは、ハインリッヒとグードルン・クーベール夫妻からの贈り物でした。

「車椅子でレースができるなんて素晴らしいと思いました。」とティムは言います。「車椅子の車輪は 3 つしかないのに、すごく速いんです。僕はとてもワクワクして、これが僕のやりたいことだったんだと確信しました。自分が出せるだけの最高速度を出してやろうと思いました。」

最初の競技用車椅子は大人用だったため、ティムの父が 7 歳児用に設計し直しました。ティムが成長した今、彼と彼の父はともに車椅子を調整しながら、その性能改善に取り組んでいます。それが、ティムがレースのやり方を覚える唯一の方法なのです。

ティムはドイツ国内とヨーロッパ各国で車椅子レースに出場しました。ドバイ、アイルランド、日本、米国でもレースに参加しました。ティムが国際大会の車椅子レースで初のメダルを獲得したのは、2009 年にスイスで開催されたジュニア ワールド選手権でした。800 メートル レースで銅メダルを獲得しています。2010 年には、16 歳で大分県の大分国際車椅子マラソンで初めて車椅子マラソンに参加しました。ティムは上位 100 位に入賞した選手の中で最年少でした。

「何よりも、」とティムが言います。「スポーツに参加することは障害を乗り越える励ましとなり、自分の能力に目を向けることを教えてくれました。自分の人生を生き、健康でいるための方法を僕に教えてくれたのは他の車椅子の人々です。家族、ハインリッヒやグードルン、これまでに出会った他の車椅子アスリートたちなど、多くの人に感謝しています。皆が僕の先生です。ハインリッヒは車椅子で階段を下りる方法まで教えてくれました。」とティムが話すとき、青い瞳をきらきらさせながら満面の笑みを浮かべていたのが印象的です。「車椅子で階段を上がる方法はまだ習得していませんが、これから練習するつもりです。」

学校ではティムは優秀な生徒であり、スポーツと同様に学業にも熱心に取り組んでいます。彼は、ハノーバーにある全寮制の Lotto Sportinternat 校に籍を置いています。この学校は学業およびスポーツともにドイツでもトップクラスの学校で、身体的な障害のあるなしに関係なく、スポーツや学業で夢を叶えたい若いアスリートたちが在籍しています。

「この学校では、」と、彼は続けます。「生徒は自分で好きに履修課程を組むことができます。僕は何を学習するかまだ決めていませんが、スポーツ管理およびマーケティング、スポーツ医学およびトレーニング、スポーツ ジャーナリズムまで、さまざまな教科があります。僕が目指しているのは、2016 年のリオデジャネイロです。」

リオデジャネイロは、2016 年夏季オリンピックおよびパラリンピック大会の開催都市です。ティム・シースタッドは、この国際的なオリンピックの舞台にドイツ代表として参加することを計画しています。

シースタッド夫妻のバンがハイデルベルクに到着したのは夜遅くでした。ティムと彼の両親は長いドライブで疲れていましたが、翌日の準備を行い、これからのレースにワクワクしていました。それは、ハイデルベルク マラソンのことだけではなく、彼らが愛情とともに後悔なく歩んできた人生のレースだからです。ハイデルベルクでのレース当日、ティムは銀メダルを勝ち取り、再び表彰台に立ちました。

「‘なぜ僕は車椅子なの?’ と、ほんの子供だったときに僕が問いかけたことがあると母から聞いたことがあります。」とティムが話します。「‘なぜ、僕は車椅子に乗らなければならないの?’ 今はそんな質問はしません。スポーツが僕に教えてくれたこと、それは、この世界には僕にしかない素晴らしい人生があるということです。僕は自立していますし、思い通りの人生を送ることができています。」